ダンス佐藤の冒頭の発言が凄すぎる件

1/3【討論!】異変?日本文化の現在[桜H26/7/12] - YouTube

以下書き起こし

文化というものの変化を論じるときに、一番問題になるのはこの変化というものは簡単に数量化できない、数字をもって説明することができないということです。経済の変化であれば日銀短観というものがありまして、これでまあ大雑把ではあるが、これから景気がどうなっていくかとりあえず予測することができます。が、日本の文化短観なるものは、これは日本文化チャンネル桜をもってしても不可能です。

 

というわけで、とかく文化の話というものは、印象論や抽象論が強くなってしまうのですが、私は文化の変化というのを測る上で1つ取っ掛かりとなる基準があり得ると思ってます。それはつまり言葉の使われ方です。言葉というのは文化の基礎です。言葉が、言葉の使われ方がいい加減な時、その国の文化が良いということはあり得ない。付け加えれば、一国の文化状況が良くない、貧困である時に良い政治が行われる事も有り得ない。これを踏まえて、今、日本文化の動向はどうであるか。私は正直、相当悲観的です。なぜか?簡単に言ってしまうと社会的に責任のある方々、特に現在の政府の言葉遣いが、かなりひどい。これはですね、小川さんのように安倍政権を応援している人の前で言うのは申し訳ないんですが、どうも最近、安倍政権の言葉遣いを見ているとですね、日本語として意味を成していない。

例えばですね、集団的自衛権の行使容認についてどういった説明がなされたか。これは憲法解釈の一部変更であるが、解釈改憲ではないと。意味を成さないこと憲法前文の如し。あるいは成長戦略について何と言ったか。もはやデフレ状況ではなく、デフレ脱却に向けて着実に前進。これまた、意味不明なこと憲法前文の如し。そして極め付きが、安部首相がイギリスのフィナンシャル・タイムズ紙に自分名義で、本人が書いたかどうか知りませんが、自分名義で発表した文章のタイトル。「私の第三の矢は日本経済の悪魔を倒す」。ちなみに悪魔にあたる英語はDemonです。まあ、悪魔としか言い様がありませんね。どうも、日本経済に悪魔が巣食ってるらしい。

この発言、非常に気になるのは、第一にフィナンシャル・タイムズ紙に寄稿された全文を読んでも、なんで悪魔という表現を使わなければならないのか、全く必然性がないんですよ。単に気を引きたいから使ったんじゃないの?というレベルの言葉遣いになってる。必然性がない。
それから、どこを読んでもですね、「日本経済に巣食っている悪魔」なるものは、一体何なのか。具体的に提示されていない。ハッキリ言って無内容なんです。
そして、いちばん問題なのは、この悪魔という言葉がですね、日本的ならざるキリスト教文化圏の言葉ということをさて置いても、悪魔を倒すと意気込んでるということは、ご本人は神の側にいると思っているわけですね。思っているという風に思われても仕方がない言葉遣いをしている。こういう自己絶対化というのは、日本の政治家のあり方として如何なものでありましょうか。

つまりですね、「必然性がない」「無内容」「自己絶対化」、これだけ3つフダが揃った言葉遣いをすると。こういう政治家というものは、力量の大小、器量の大小、あるいは支持する支持しない関係なく、この言葉遣い一点において信用し得ないものがあるのではないかというのが、私の正直な意見です。そして私は、こういう風に考えるというのが国民の文化感覚、あるいは言語感覚として正常なのではないかという気がしています。

かつて福田恆存さんは、戦争中の政府、マスコミの書いた文章に触れて、「これらは非常な悪文であった」と指摘しました。そして、何と言ったか。「戦後、左翼とかリベラルという人々は軍部に騙された、騙されたと言ったけど、正常な言語感覚を持ち合わせた国民であれば、あんな悪文に騙されるはずがない。言葉というものは、それ自体を基準にして判断しても間違いがないほど確実なものである」。これは福田さんの名言です。こういう概念があればこそ、文芸評論という概念が成立しうるわけです。それに照らしてみると、現在の政府が使っている言葉は実にいい加減極まりないと。このような政府はですね、政策の良し悪しを超えたレベルで信用し得ないものがあると。そういう風に考えるのが、正しい文化感覚であると思います。文化というものは、このようにですね、いわゆるアートであるとかポップカルチャーのみならず、政治や経済にも深い影響を及ぼします。ですから、本日はそのような視点から文化について考えていきたいと思います。