濱口梧陵(7代目浜口儀兵衛)

稲むらの火

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・1820年生まれ、紀州藩広村(現在の和歌山県広川町)生まれ

・醤油醸造業(現・ヤマサ醤油)を営む当主

安政元年11月5日(1854年12月24日)、マグニチュード8.4の安政南海地震にて被災

・その際に生じた津波によって、村の家屋のほとんどが損壊。

・その時、積みわらに火をつけることで、薄暗がりで逃げ道を見つけられずにいた村人たちに方向を指し示し、その命を救った

稲むらの火の主人公のモデル

 

私財で復興を行う

地震により多くの村人が、家や家族を失う

・また、漁船も津波で破損、あるいは流されてしまい、田畑も塩分が入ってはすぐに作付けできないため、職も失う

・その結果、村を捨てて出て行こうとする者まで現れ始める

・どうすれば、村人たちが希望と気力を取り戻したもらえるのか、どうすれば村人たちが村にとどまってくれるのか、梧陵は考える

・そこで、浜に堤防を築くことを思い付く

・材料費と賃金も全て自分と店で出すと決め、藩から許しを得る

・その時、梧陵は村人にこう語ったという

50年後、いや、100年後に大津波が来ても、村を守れる大堤防をつくろう。工事には、できるだけ多くの村人たちに参加してもらう。賃金は、毎日手にできるようにする。自分たちの手で、子孫たちまで安心して暮らせる村をつくるんだ。

 ・仕事があり、それが村のためになるという案は、村人たちを立ち止まらせ、ほとんどの村人が堤防づくりに参加することを決めた

 

堤防完成とその後

・堤防に沿って数千本の松の木を植える

  • 松が根を張ることで津波や風雨にも耐えられる強固な堤防にするため
  • 堤防を超える津波が襲来しても、津波の勢いを弱くできる
  • 流された人が林でせき止められ助かることがある

・約4年の年月を掛けて、全長600mの広村堤防が完成する

・堤防完成から88年後の1946年、再び和歌山沖でマグニチュード8.0の昭和南海地震が発生

・この時、広村には高さ4mの津波が押し寄せた

・しかし、梧陵が堤防の高さを4.5mと設計していたため、村の大部分が浸水の被害を受けることはなかった。

・この時をもって、「百年後に大津波が来ても村を守れる堤防を」という想いが実を結んだ

 

 

濱口梧陵の凄さ

・土木、防災や設計の専門家でないにも関わらず、100年スパンで災害対策を考えたこと

・民間人でありながら、私財を投じそれを実行したこと

・防災事業と生活援助を同時に行うケインズ的政策をこの時代に先駆けて行う

・長期計画の有用性を証明

 

過去の人間の叡智や蓄積された社会資本が、今日の我々の生活の利便や安全を守っているということを忘れてはならない。今も広川町では、小中学生による堤防の手入れが続けられているという。こうした教育によって安全意識を紡ぐことも、重要な防災であると言えよう。

 

 

参考資料

河田恵昭著~百年後のふるさとを守る

資料室 【稲むらの火】〜安政地震津波の顛末〜 稲むらの火の館 「濱口梧陵記念館」「津波防災教育センター」

濱口梧陵 - Wikipedia